苦しみと生きる人 『アーサー王伝説』と『マイファミリー』

『マイファミリー』の最終回を終え、むしょうに『アーサー王伝説』が見たくなり、退団記念のブルーレイもまだ未開封でしたので、改めて見てみることに致しました。

今回は『アーサー王伝説』を中心にちょっとだけ『マイファミリー』の話も交えつつ[苦悩の中を生きる珠城さんの魅力]について書いていこうと思います。今回も褒めちぎりだよ〜笑

 


2016年月組文京シビックホール公演

アーサー王伝説

潤色・演出 石田昌也

 

 

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【中世の始め、ブリタニア-。この地にはいにしえより聖剣エクスカリバーの伝説が語り継がれていた。曰く、エクスカリバーを引き抜く事が出来るのは誠実な心を持ち合わせた真の勇者のみ。その剣を抜いた者はブリタニアを統べる本物の王となるだろう…。

長い年月、幾多の者が挑んでは敗れた聖剣を一人の少年がいとも簡単に引き抜く。その少年こそ、後の若きブリタニアの王・アーサー(珠城りょう)であった。】

 


前回のブログでは、珠城さんの魅力ってスタンダードなところだよね、スタンダードな存在は個の特別性を照らしてくれるから、ありふれた一市民を演じる時にひときわ輝くんだよね、というようなお話をいたしました。

今回振り返る『アーサー王伝説』で珠城さんが演じるのは、エクスカリバーの伝説や円卓の騎士でお馴染みの若きブリタニアの王、アーサー。バリバリの王位後継者です。しかも魔術師やら魔女やらも出てきてなんだかファンタジーめいている。全然ありふれてない!

 


結論から申しますと、スタンダードな人がそんな人物を演じると、魅力が『説得力』に転化されるように思います。

だってもうせり上がってきた瞬間に「あっ、これはエクスカリバー簡単に抜くわ」って理解できるじゃないですか(笑)そういう演出になってるからというのもありますけど、演出云々を超えた『説得力』があの人にはあるんです。

 

正直、見た目の要素も多分にあると思います。上背があって全体の等身バランスがとても良い。「恵まれた体型」とよく媒体等では紹介されますが、その通り(笑)。

でも「恵まれた体型」はそれを使いこなせなくては全く意味を成さない。

エクスカリバーだってただ抜けるだけでは国は治められないのです。聖剣を抜くに相応しい人物であると広く認められなければ。

 

 

 

普通宝塚のトップスターが運命の王子を演じるならば、カリスマ性をもって征するのが正攻法でしょう。

異質さ、とでも言いましょうか。極めて美しいとか追随を許さない華があるとか、或いは他を圧倒するだけの技術があるとか。そういったものから生み出される迫力が「只者じゃない感じ」に繋がり、加えて各個人の演技力でもって王たる所以を示してゆく。(たまにカリスマ性だけで乗り切っちゃう人もいるけど(爆)それはそれでいいのですスタァなんだから)。

珠城さんは美貌の人ですが、カリスマ的な人かと言われると少々違和感があります。カリスマが三角形の頂点だとしたら、珠城さんは丸い円の中心にいるイメージ。

 

 

 

話を『アーサー王伝説』に戻しましょう。

聖剣は抜いたけれど、さて珠城アーサーは自分の正当性をどのようにして人々に納得させる?


物語が進むにつれアーサーの出生の秘密が明らかになり、彼の誕生を恨んで復讐心を燃やす義姉モーガン(美弥るりか)なども登場し様々な試練に見舞われます。試練の連続の中でアーサーが得た最大の果報が、愛する妻グウィネヴィア(愛希れいか)です。

しかし、そのグウィネヴィアもモーガンの策略により円卓の騎士の1人ランスロットと惹かれ合うように仕向けられてしまう。

 

ランスロットが聖杯探しを放り出して危機に瀕したグウィネヴィアを助け出したことで、2人の関係が露呈。

不貞を犯した者は命を奪った上に衣服を剥ぎ取り市中引きずり回しの辱めを受ける、それがこの国の掟です(なんちゅう掟や)。

アーサーはここで王として罪人を処刑する選択を迫られます。

[愛する人を奪われた上に自らの手で処刑しなければない]、この地獄の苦しみこそが、先王の不貞により母を奪われた義姉モーガンの狙いでした。

 


磔にされたグウィネヴィアとランスロットを前に、アーサーは遂に決断します。

「二人を許すこととする」。

国を統治する王としては間違った選択であったとしても、アーサーは愛する妻を貶める行為にしのびず一人の人間として当然の感情を優先させます。

それにしてもアーサーはグウィネヴィアの不義を責め立てることはしないんですよね。裏切られた悲しみもあるはずなのに、相手を想う慈愛の精神が先に立つ。この、人としての心の器の大きさこそがアーサーを真の王と人々に知らしめることになるのですが、偉大すぎる彼の行動は一つの悲劇を生みます。(こういうのもすごい珠城さんぽいなぁと思う(笑)ド直球のド正直は時として眩しすぎる)(すみません話逸れました)

 

アーサーの大きな愛を前にグウィネヴィアは自分の罪深さを認めきれず、遂に発狂してしまうのです。

グウィネヴィア、可哀想過ぎませんか…?だって騙されてたようなもんですよ!?でも騙されていたことも含め、受け止めることが出来なかったのでしょうね。

いっそ強く詰られた方がグウィネヴィアは救われたかもしれません。 

 

心を壊してしまったグウィネヴィアを思わず抱きしめるアーサー。

私はここの珠城アーサーのなんとも言えない表情が好きです。

悔恨、妻への尽きぬ愛、自分の無力さ…その全てを振り切って、グウィネヴィアを静かに手放す。

数十秒の別れの時間ですがアーサーの人としての苦悩が詰まっていて、こういう心の襞の細やかさが珠城さんの『説得力』を支えているんだなと思います。言うなれば、血が通っている。

カリスマに勝る珠城さんの『説得力』の正体は、異質さとは真逆の、実体の濃さにあるのではないでしょうか。

 

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不貞という思わぬ落とし穴。

トップスターのプレお披露目で愛と許しを巡る王の物語を演じた珠城さんですが、女優デビューとなった『マイファミリー』でも、愛を求めて求めきれず、許されぬ罪を背負って生きる女性・東堂亜希を演じることとなりました。

魔女の策略で夫の愛を裏切ってしまったグウィネヴィアと、他人の優しさで夫不在の孤独を埋めてしまった亜希を同等に語るのは多少こじつけ感がありますが、まぁ目をつぶってもう少しお付き合いください(笑)

 


先日行われたトークショーで、最後の面会の場面で亜希が結婚指輪をつけていたのは珠城さんのリクエストによるものだったという話があったそうですね。

その話を聞いた時、これは珠城さんがやるべき仕事に間違いなかったと再認識しました。

 

東堂亜希はそういう女です。グウィネヴィアのように心を壊したりしない。

 

アーサーは「死ぬことよりも生き続けることの方がはるかに過酷であると知るがよい」と二人を突き放しますが、この言葉を借りるなら亜希は「死ぬことよりも過酷な生き続ける道」を選んだのです。

亜希は指輪を外せなかったのか、意志を持って外さなかったのか。

おそらく両方でしょう。

亜希にとって結婚指輪はかつて確かにそこにあった幸せの証であり、同時に全てを台無しにしてしまった自分への戒めでもある。

彼女が何をよすがに生きてきたか…。そこに指輪がある事により、古びた布バッグをきつく握りしめて佇んでいる姿がとても雄弁なものとなりました。

 

珠城さんが「亜希は指輪をつけているはず」と思うに至った経緯はわかりませんが、珠城さんはきっと整合性の取れないことは気持ち悪くてできないタイプの人なんだと思います。役者としてのカンの良さというか「これってこの役には必要ないよね」とか「この人ならこうするはずだよね」っていう感覚が鋭い人。

整合性というのはとても重要で、どんなにかけ離れた境遇の人物であったとしても(中世イングランドの王や不倫に走ってしまう妻など)きちんと芯が通っていれば、観客は共感とまではいかずとも、その人がなぜその道を辿ることになったのかを自分の感情とうまくスライドさせて理解できるようになる。

珠城さんは当たり役が多いと言われますが、これは珠城さんがスタンダードな魅力を持ちながら、頑固一徹に自分の中の整合性を大事にして作品に向き合ってきた結果なんだと思います。

 

 

 

グウィネヴィアを抱きしめるアーサーと、面会室で泣き崩れる亜希。

この二役は対のような気がするのです。

珠城さんの強火ファンは『アーサー王伝説』大好きですよね。ぽんちゃんとか(笑)。で、多分ですけどアーサー好きな人は東堂亜希ちゃん大好きです(笑)

 

『死ぬことより生き続ける事の方がはるかに過酷であると知るが良い』

アーサーはランスロットに語りかけながら実は自分自身にも同じ難行を課している。

だってアーサーは二人をスパッと処刑して無かったことにだってできたんですから。

 

アーサーはどんなに苦しい道でも、真正面から向かい合った。

亜希は樹生の前から姿を消してしまったけれど、人生の苦しみからは逃げなかった。

そして私が知る限り珠城りょうさんご本人も、時に不器用なほど何事にも真正面からぶつかって、その身が傷つくことも厭わずに突き進んでいく人です。

ファンとしては時々(度々?常々?笑)心配になりますが、そんな生き方が似合う彼女だからこそ多くの人を惹きつけるのだと思います。そして同時に、その不器用さや生真面目さがあまりにも眩しくて、メリアグランスのように時々反撥したくなる人も。

 

アーサーも亜希も、決して聖人ではない。

若者ゆえの奢りもあれば、寂しさに耐えかねて禁じられた遊びに手をのばすこともある。ゆえに足元を掬われ窮地に陥りますが、人の真価はこんな場面でこそ問われるものです。

不都合から目を背けず、真正面から挑む勇気。それこそが聖剣エクスカリバーを抜く者の条件なのではないでしょうか。

亜希は広島で一人どんな生活を送っていたのでしょうか。ひっそりと罪と向き合った5年間はきっと短くはなかったはずです。そして樹生の逮捕がなかったらもっと長い自責の時を過ごしたはずです。「亜希」と名前を呼ばれ堰を切ったように慟哭する姿が彼女の背負うものの大きさを物語っていました。あの姿を見て、単なる不倫妻の末路だと誰が嘲笑うことができるでしょうか。哀しい一人の女の叫びを。

 

アーサーもまた、現実を生き続ける私達と同じく『生きる苦しみ』の中でもがき、それでも最後には聖剣を手に、正しき道を指し示してくれる。カッコ悪くても辛くてもそれでいいんだと、傷ついた姿が光り輝いて見える。

 


アーサー王と東堂亜希。

 


苦悩する珠城さんは、そんな訳でやっぱり美しいのです。

 

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相変わらずの長文、お付き合いいただきありがとうございました。

次回はもう少し砕けた内容にしたい、と思います…(できれば)